キミが犯罪者にならないために

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はじめに

◆Episode 01◆

「刑法学者には3つの自由がある。通説からの自由、師匠からの自由、そして、改説の自由である。」

正義の女神・ユスティティア

正義の女神・ユスティティア

疑問から始まる

学問は、既存の知識・見解・考え方に疑問を抱くことから始まります。学問の進歩は、これまで支配的であった知見に対する疑問を大切にし、それを1つの考え方に結実させていくことから始まることが多いからです。ですから、批判的精神は不可欠ですし、懐疑的な視点は必要です。

それは刑法解釈学でも同じこと。日本の刑法はドイツの刑法を手本にして1908年・明治41年に制定されました。そのためもあって、日本の刑法解釈学は、ドイツの刑法解釈論を意識して発展してきたのです。

第二次世界大戦後、刑法の全面改正が実現しなかったこともあって、日本の刑法解釈学は、現在もなお、ドイツの刑法解釈論を意識して展開されています。日本の刑法研究者や法曹実務家が刑法研究のためにドイツに留学するのは、そうした事情があるからです。

他方、犯罪捜査や刑事裁判手続などを定める刑事手続に関する法律は「刑事訴訟法」と言いますが、第二次世界大戦後、ドイツを手本にした大陸法系の刑事訴訟法は廃止され、占領軍であったアメリカの指導のもと、アメリカを手本にした英米法系の刑事訴訟法が導入されました。日本の刑事訴訟法研究者や法曹実務家が刑事訴訟手続を学ぶためにアメリカに留学するのは、そのためです。

正義の女神・ユスティティア

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刑法と刑事訴訟法とのギャップ?

すでにお分かりのように、犯罪・犯罪行為者と刑罰の内容を定める刑法は、1900年初頭にドイツ刑法の影響を受けて制定され、戦後、一部は改正・削除されましたが、そのまま効力を持ち続けました。これに対し、犯罪捜査や刑事裁判手続などを定める刑事訴訟法は、アメリカ刑事訴訟手続の影響を受けたものが、戦後、新たに制定されました。

つまり、犯罪・犯罪行為者と刑罰に関する実質内容を定める実体刑法はドイツ刑法の影響を受けたものが戦後も維持されたのに対し、刑事訴訟法はアメリカ刑事訴訟手続の影響を受けたものが戦後新たに制定されたのです。そうすると、刑事実体法である刑法と刑事訴訟手続法である刑事訴訟法との間にギャップが存在しているのではないか、と心配になりますよね。

正義の女神・ユスティティア

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法律と実務とのギャップ?

しかも、戦後、ドイツ刑事訴訟法からアメリカ刑事訴訟法へといきなり転換されたため、刑事訴訟手続に関与する警察官・検察官、裁判官、弁護士などが、新しい刑事訴訟法への転換を円滑に行うことができず、従来の考え方を引きずったまま手続を進めていったのではないか、という懸念も存在しました。つまり、刑事訴訟法の理念と警察官を含む実務家の考え方との間にギャップが存在したままで、新しい刑事訴訟法が施行されていったのではないかという心配です。逆に言えば、戦前のドイツ式の大陸法系の刑事訴訟手続の意識が残ったままで、表面的・形式的には新しい英米法系の刑事訴訟手続が進行していったのではないかということです。

たとえば、証拠開示、取調べの全面可視化、再審制度など、現在課題となっている刑事訴訟手続の問題点は、そうしたギャップに起因しているのではないかと考えられるということです。

保守的な刑法研究者

いずれにしても、既存の考え方をそのまま継承して次世代に手渡すことが、刑法研究者の目標であってはならないでしょう。常に、新しい視点からの考察、新しい知見に基づく再検討がなされることが求められているのです。

本来自由で、柔軟な思考を有しているはずの刑法研究者も、支配的な考え方から自由であることは難しいという現実があります。それで思い出すのが、若いときに先輩研究者から聞かされた冒頭の言葉なのです。

これを聞いたとき、「皮肉かな」と思ったものです。刑法学者にとって、①通説(支配的見解)から距離をおいて独自の見解を展開すること、②指導教授の見解を批判的に検討してそこから離脱すること、さらに、③自分の見解さえも批判的に検討して改説することは、いずれもきわめて難しい作業であり、刑法学者の3つの自由はそれを逆説的に、皮肉っぽく表現したのではないかと思ったわけです。

それほどに、3つの自由を享受することは、刑法学者にとってきわめて困難で、相当に気慨と勇気を要することだということを、その言葉は明らかにしています。逆に言えば、刑法学者は、支配的見解や判例をそのまま受け入れて、自説と同じであるとする傾向があるということであり、その意味で、刑法学者はきわめて保守的なのです。

皆さんも実感していると思いますが、ほかの多くの人たちが、「こう考えるのが普通だ、常識だ」と発言しているのを聞いたとき、「いや、それは違うよ。むしろこう考えるのが合理的だよ。」と異を唱えるのは、相当の勇気と労力を要しますよね。多くの人たちに賛同して、「そうだ、そうだ」と言う方が楽ですから。

法律の世界でも、支配的見解に異を唱え、自説の妥当性を論証することは、「支配的見解は妥当である」とするよりもはるかに時間と労力を要するのはお分かりと思います。

正義の女神・ユスティティア

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あえて批判的視点から

しかし、およそ半世紀にわたって刑法のことを考えてきた者として、従来の刑法解釈学に対して抱いてきた疑問を書いていこうと思います。もちろん、刑法の重要な内容についても。

 このサイトが、刑法の勉強をしていく中で色々と疑問を感じた多くの人に届いて、「同じような疑問を抱いた人がいたんだ」、「私の疑問は無知によるものではなかったんだ」と思ってくれたら嬉しいですね。また、刑法の研究に携わっている研究者、特に柔軟な思考を持ち合わせている若い研究者に何らかの学問的刺激を与えたのであれば、大いなる喜びですし、新たな視点を1つでも提供することができたのであれば、望外の喜びです。

また、裁判官、弁護士、検察官の法曹実務家は、自分が司法試験受験のために勉強した基本書の考え方、既存の支配的な見解、判例に依拠する傾向があり、やはり保守的といえます。しかし、法曹実務家、特に弁護士の中には、新しい考え方を判例として定着させるために、あえて挑戦的な姿勢を貫こうとする方もおります。本書が、そうしたチャレンジ精神をお持ちの実務家にエールを送るものとなればと希望しています。

正義の女神・ユスティティア

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□参考:関 哲夫『講義 刑法総論』(第2版・2018年)
     第00講 ガイダンス(1〜7ページ)
     第01講 刑法の意義・機能(8〜19ページ)